減塩のカレーが普段食べているカレーに変身
減塩食をおいしく食べられるスプーン「エレキソルト」は、どんな仕組みで塩味やうま味を引き出しているのだろう。そんな謎に迫るべく、向かったのはキリンホールディングス株式会社です。開発者の佐藤愛さんに出迎えられ、さっそくエレキソルトを試用させていただきました。
試食したのは食塩不使用の無塩バターチキンカレー。素材本来の塩味やうま味を味わうことができるカレーです。
まずは普通のプラスチックスプーンでいただいてみると、とてもやさしい味わいです。野菜の甘みで十分においしいですが、ご飯にかけるには塩味が物足りないかも。この味を舌で覚えたまま、次にエレキソルトを使って試食してみます。
使用するときのポイントは、エレキソルトに搭載された電極に指と食品がしっかり触れること。柄(え)の部分にある電極を手で握り、スプーン部分にある電極に食品を乗せて口に含むことで、食品から舌へ、そして腕から柄に電気の通り道が生まれます。電気が流れているときは青の点滅が白色のランプに変わります。
エレキソルトにカレーを乗せて口に含み、白いランプが光ると味全体がジュワッと濃くなったように感じました。お、おもしろい…!!
電気が流れている間だけ味わいの増強効果が出るため、少し長めにスプーン食品を口に含むと効果がわかりやすいそう。カレー自体に塩味が少ないので、塩味の増強はほとんどされませんが、うま味の増強効果もあるとのこと。主にトマトのうま味が増して、ご飯に合いそうなカレーへと変身しました。
「金属のスプーンをなめたときのような味もプラスで感じます」と、取材に同席したカメラマン・村上さんが感想を漏らします。その指摘は的を射ており、なんと電気自体に“電気味”と呼ばれる味があるそう。
味の変化がおもしろくて何度も食べていると、カレーがなくなってしまいそうになり、慌てて佐藤さんに止められました。お次はカレー自体に食塩を少し振りかけてプラスチックのスプーンで食べてみます。普段食べているカレーと変わらない味です。
再度エレキソルトで食べてみると、先ほどより塩が増えた分、しっかりと塩味が増しました。これはご飯が進む味だ…! すっかりカレーを平げたところで、エレキソルトの体験の興奮が冷めやらないうちに、味わいの増強の仕組みはどうなっているのかを佐藤さんにお話を伺いました。
電気をコントロールして食の味わいを底上げする電気味覚の技術
――エレキソルトを使用することで、塩味とうま味が増強される仕組みを教えてください。
通常食事するとき、食事の中の味わいの成分は唾液に溶けて、分散した状態になり、それが分散したものが舌の味を感じる細胞・味蕾(みらい)に当たることで味として知覚されます。味の基本の五味は甘味、塩味、酸味、苦味、うま味ですが、特に塩味・うま味・酸味の成分はイオンと呼ばれる電気的な性質を持ってることが多いんです。
そこに微弱な電気を流すことで、イオンの動きを本当に微小な範囲だけコントロールすることができます。イオン泳動とも呼ばれるんですが、唾液の中で分散している塩味やうま味を、味蕾に近づけるように電気でコントロールすることで、しっかりとした味を感じさせる仕組みを取り入れています。この技術が電気味覚と呼ばれています。
――食品によって効果の違いがあるのでしょうか?
カレーなどの液体系は電流が安定して流れやすいので、効果を感じやすいです。口元から食品を離して電流が途切れると効果がなくなるので、よく噛んで食べるお料理の場合、最初は味が増強されますが、噛んでるうちに元の味に戻るので味のギャップが生まれやすいかもしれません。また、白米などは塩味やうま味といった増強できる味が少ないので、ほぼ効果がありません。
人によってはおしるこのような塩で引き締めるスイーツで、塩の代わりにエレキソルトを使って食べている方もいらっしゃいます。エレキソルトは減塩のサポート機器として出していますが、ベースには「食事が楽しくなればいいな」という想いがあるので、ご家庭で実験のようにいろんな食品に使って楽しんでいただきたいです。
実体験から減塩食の辛さを実感
――エレキソルトの開発に至った経緯を教えてください。
研究員としてKIRINに入社したときから、食体験を広げるような新規事業や新しいサービスに繋がる研究開発を行っていました。変わったところですと、新しい食感の氷を研究していました。そんな食品素材の研究をしていた中で、病院の先生と共同研究する機会があったんですが、「患者様に食事療法を続けてもらえないんだよね」というお声をいただきました。一方で患者様はその重要性を理解し、すごく頑張って減塩されていてもなかなか続けられないようで、それはなぜだろうという疑問が生まれました。
まずは私自身が減塩生活がどんなものなのか知るために、実際に1日食塩6g未満の生活を3ヶ月してみました。最初は意外といけるかもと思ったのですが、だんだん食欲がなくなり、3ヶ月で5キロぐらい体重が落ちてしまいました。いきなり大きく減塩すると食の楽しさが失われて、食欲自体が失われてしまうと気づいて。そこから減塩をサポートする技術開発ができないかと動き出しました。
――減塩生活では何が一番辛かったのでしょうか?
どの食事もまずくはないんですが、塩分量が決まってるので、食べられない料理があったり、食べる量が制限されたりするのがつらかったですね。汁物を飲んでいても味気ないので、だんだん食べなくなっていきました。特に治療のために減塩されている方はしっかり食べて体力をつけなくてはいけないのですが、食べるモチベーションがなくなってしまう辛さがあるのだと感じました。
――減塩食の味のパターンが少ないがために、だんだん食が細くなっていってしまうのですね。減塩食をサポートするために、どういうアプローチから始めたのですか?
最初はどういう減塩の食品素材や調理法があるのかリサーチを始めました。ただいろんなメーカーさんが頑張っている分野なので、さらに増強するような新しい手立てがないかと探索したときに、別分野の技術を掛け合わせることで解決できるのではないかと発想して、バーチャルリアリティの学会に参加したんです。そこで明治大学の宮下芳明先生による、電気の力を使って食事の味わいを変調させる「電気味覚」と呼ばれる技術を拝聴しました。この技術を掛け合わせることで減塩の課題を解決できるかもしれないと、宮下先生に共同研究のお願いをしました。
電気味覚は国内外の大学で、数十年前から食生活を豊かにするために研究開発されてきた分野です。宮下先生は味を情報として伝達する方法として電気味覚を使えないかを研究されていたんですが、やはり健康課題の解決に向けて社会実装したいという想いをすごく強くお持ちだったので、共同研究することになりました。
KIRINの社内制度を活用して誕生したエレキソルト
――ドリンクが主な商品であるKIRINで、エレキソルトのようなプロダクト開発に対する社内の反応はいかがでしたか?
最初の頃は誰に届けたいのか、誰のどういう生活が変わるのかを社内でうまく伝えられてなかったこともあり、「変わったことをやろうとしてるな」と奇異な目で見られることもありました(笑)。既存の事業と結びつかない技術開発なので、KIRINの研究所の中にある「アイディア検証制度」という制度を活用して研究開発をしていました。健康課題や社会課題の解決に向けた技術開発のために、業務時間の10%を自由に使っていいという制度です。
さらに「KIRINビジネスチャレンジ」という社員が事業提案できる制度があり、それも活用しました。社内起業のような形で事業を目指していこうと、宮下先生と共同での事業提案という形で応募をしたところ、最終審査を通ってプロジェクト化することになりました。
――実際にプロジェクトになってから、社内での反応は変わりましたか?
KIRINグループはずっと楽しい食卓に寄り添っていきたいという想いがあるので、それを叶えるための機器だと説明してからは理解を得られるようになりました。現在は弊社の営業から取引先の飲食店の方や高齢者施設の方を紹介していただいたり、KIRINグループの医薬品の事業のMRの方が病院の先生をつないでくれたりと、弊社のネットワークを活用しながら、エレキソルトを広めるためにたくさん協力をしてもらっています。
――食品だけでなく食品をサポートする機器ができることで、事業全体の領域も広がりそうですね。
スプーン型だけに留まらない、様々な形状を探究
――開発の初期段階からスプーンの形だったのでしょうか?
まずはパソコンで電流の波形をデザインして、電気で出力する機械を作るところからスタートしました。なので、初期段階はプロダクトの形までは決まっていなくて。いろいろな形を試しながら、3Dプリンターに既製品のスプーンを入れて基盤に銅線を繋いだものから、だんだんと小型化していきました。
――まずは電流の波形をデザインして、それをプロダクトに落とし込んだのですね。味覚の波形は、例えば誰の味覚を起点にデザインされていったのでしょうか?
プロトタイプの状態を一般の方々に使っていただくのは難しいので、宮下先生や私、明治大学の学生の味の感じ方を参考に、電流の波形をデザインしていきました。モデル食品と、実際の食事に近い試験食品を使った2パターンの試験をし、さらに段階を踏みながら塩味や食事全体のおいしさ、満足度について総合的な評価をしていきました。ちなみに、モデル食品では塩味のみを計測するため、食塩水を固めた寒天を使っています。
実際のプロダクトに落としていくためには、減塩食にハードルを感じている方々の味覚に合わせていく必要があるので、効果測定の際にご協力いただいてチューニングを繰り返していきました。
――開発段階では、箸やお椀の可能性もあったんですね。
減塩されている方々に、どういうお食事を食べたいかをヒアリングしたところ、ラーメンが圧倒的に多かったんです。あとは汁物、カレー、焼き肉が挙げられたので、食べたいものに合わせられるように箸とスプーンとお椀での開発を進めていました。
しかし箸は小型化が難しく、電源と基板を箸の筐体に収めようとすると、体温計くらいの大きさになって使いづらかったんです。それでスマートウォッチみたいに、利き腕につけて、お箸からコードを繋げないかと試作したものがこちらです。
結局、コードがあると邪魔だということで断念しました。ただ技術の発展に伴い基板の小型化はどんどん進むでしょうし、個人的には諦めていません。
――確かにスプーンよりもお箸の方が汎用性が高そうですね。
やはりお客様からいろんな食事で使いたいというお声もいただいているので、他の食品で使えるような形態を出していこうと研究を進めています。エレキソルトはスプーン部分を電動歯ブラシのように外せるので、違う形状に差し替えることも今後は可能になるかもしれません。そうすれば減塩したラーメンをレンゲで楽しめるでしょうし、食事に合わせた形を探求していきたいですね。
――レンゲにした途端、販売台数が伸びることもあるかもしれませんね(笑)。
食の楽しみを広げる、電気味覚が持つ可能性
――先ほど家庭で味の実験をしてほしいとおっしゃってましたが、エレキソルトは治療のための食事療法が必要な方だけではなく、幅広い方に向けられているのですね。
減塩されてる方からは、特殊な機械を使っているように見られたくないというお声もたくさんいただいているので、医療機器ではなく、あくまでも食を楽しむための雑貨品、サポートツールとしてご家庭で使っていただけるように開発してます。
想定しているメインターゲットは3パターンありまして、一つは健康課題を抱えていて、どうしても減塩をしなければいけない方。二つ目は減塩のお食事をサポートされている方。三つ目は20代から30代の若い世代で、特に健康課題を抱えてはいないけど、健康的な食生活に興味がある方。特にむくみ防止のために減塩されている方ですね。エレキソルトの展示会では、筋トレをしているマッチョの人が訪れることが多いんですよ。
――マッチョですか!?
ボディビルなどの大会前に筋肉を綺麗に見せる最後の仕上げとして、塩抜きをするそうなんですね。そういう方もいらっしゃるので、健康上の問題がない方々もターゲットになりうると思っています。
――実際に一般販売してから、お客様からどういった反応をいただいてますか?
ご購入いただいたお客様の中に、料理学校に通いながら減塩をされているユーザーさんがいて、SNSで「今日はこんな料理作ってエレキソルトで食べてみた」と、使い方をたくさん投稿してくださっていてとてもありがたいです。
エレキソルトを使いこなして食べる幅が広がったという声がある中で、使いにくかったり効果体感が少なかったりという厳しいお声もいただいております。貴重なご意見を収集しながらどんどん技術のブラッシュアップも進めています。
――将来的には食事を自分の好みの味に変化させることもできるのでしょうか?
電気味覚と呼ばれる研究領域では、電気自体で甘みや炭酸感を再現しようと研究している研究者もいらっしゃいます。電気の流し方によって味の感じ方が変わるので、今後伸びていくであろう、おもしろい研究領域です。
とはいえ、現状は砂糖の甘味自体が電気的な性質を持っていないので、コントロールが難しいですね。ただ時間はかかっても、これから伸びてくる研究領域なので、いろんな味が再現できるようになるのではないかと思います。
――電気味覚は可能性に満ちている分野なのですね。最後に、今後の展望を教えてください。
エレキソルトの小型化や使いやすさの追求はもちろんのこと、電気を使っていろんな味を再現する研究もしていきたいです。明治大学の宮下先生が目指しているような、電気信号として映像や音を転送するように、味自体を遠隔地に転送する味の転送技術も発展していくと思うので、その分野も研究していきたいと思っています。
――味の転送もできるんですか! 例えばそれは、どんな健康課題の解決につながるのでしょうか?
KIRINでは心の健康にも注目しておりまして、遠隔地でも同じ味わいを食べることができたり、今は健康上の理由で食べれなくなってしまったけど、昔味わっていた好きな味わいを再現して食べることで、心の健康のケアにもつながるんじゃないかなと思ってます。
まずは第一弾として、減塩の課題を解決するためにエレキソルトを開発しましたが、これからも楽しい食卓に寄り添えるように技術開発を進めていきたいですね。
――エレキソルトを出発点として、さらに食の楽しみ方が広がっていくのですね。
編集後記:
KIRINから食器型デバイスが誕生したと聞いたときは驚いたのですが、「楽しい食卓に寄り添う」ことをカタチにした素敵な製品でした。病気によって食べられないものが増えるのは、とても辛いことです。エレキソルトによって「おいしい」を諦めることなく、健康的な食生活を叶えられることは、多くの人にとって希望になるはずです。さらなるKIRINの思いと技術が、これからどんな豊かな食の未来をつくっていくのか、とても楽しみです。
<プロフィール>
佐藤愛
2010年キリンホールディングスに入社。新規事業につながる技術の開発や、研究所運営の企画業務に従事。2019年、明治大学 宮下芳明研究室と共同で「エレキソルト」を開発。同年「キリンビジネスチャレンジ2019」に応募し事業化に向けたプロジェクトとして始動 。2024年5月からエレキソルトの発売を開始し、事業責任者として事業運営と技術開発を進めている。
公式サイト:https://electricsalt.kirin.co.jp/
(執筆:李生美、撮影:村上大輔、編集:ヤマグチナナ)