かつて世間を賑わせた「高速水着」
水泳競技の国際大会では、選手たちの「水着」も、世間の注目を集めてきました。2008年、レーザー・レーサーという「高速水着」が世間を賑わせたのを覚えているでしょうか。イギリスSPEEDO社が開発した競泳用水着で、NASAやオーストラリア国立スポーツ研究所など多くの専門家が開発に携わり誕生しました。2008年の北京オリンピックでは、トップクラスの選手の多くがレーザー・レーサーを採用。世界記録やオリンピック記録更新が軒並み更新され、世界記録だけでも23個塗り替えられました。着用した全員が記録を更新したわけではありませんが、高速水着着用の影響は明らかでした。
レーザー・レーサーは、水の抵抗を無くすため縫い目がなく、撥水性に優れ、極薄で軽量ながら締め付ける力が強いのが特徴です。第二の肌のようにしっかりフィットしながら体を流線型に整えることで、トップ選手もさらに水の抵抗から自由になりました。その圧縮力は、着用するのに30分以上かかるといわれるほど。
「抵抗低減」型のレーザー・レーサーに追いつけ追い越せと次に登場したのが、ウェットスーツ素材を使用し体に浮力を持たせる「ラバー水着」です。泳ぎに疲れてきても浮力のおかげで高位置での泳ぎをキープでき、結果、水の抵抗を軽減。ラバー水着が席巻した2009年の世界水泳では史上最多、43の世界新記録が樹立されました。そしてトップ選手たちが着用したラバー水着の大半で、日本の山本化学工業の「バイオラバースイム マークⅡ」が使用されていました。この素材はその組織形状や大阪発ということから、「たこ焼きラバー」なる愛称で注目されます。
しかしこの「高速水着」は2010年、国際水泳連盟によって事実上禁止されることになります。当時、男性は肩から足首まで覆う水着が許可されていましたが、ルール改定によりへそ下から膝までに。女性も肩から膝までになり、水着が体を覆う表面積が小さくなりました。生地は織物に限定され、重ね着やテーピングは禁止、厚さや浮力も制限。分厚かったラバーの高速水着は、誕生から程なく、姿を消すことになりました。
とはいえ、それら高速水着が去った後も、各社はスピードを追い求め、次世代の高速水着開発を続けてきました。競泳陣の泳力向上には、各人の努力だけでなく、常に競泳水着の技術革新が寄与してきたのです。また、これら高速水着がどのように泳ぎに寄与したかを分析することで、技術向上が叶えられた部分もあるとされます。
本多灯選手も着用予定! 内股のねじり構造でキックを効率的に
デサントジャパンの「アリーナ」ブランドでは、パリ五輪まで1年を切った2023年8月に新型水着を発表。オリンピックに向け、実に4年をかけ開発されました。「アクアフォース ストーム」と名付けられた競泳用トップモデル水着は、渦を巻くような内股のねじり構造により、ダウンキック時に効率よく水を捉えます。
泳いで前に進むためには、キックは欠かせないものです。このキックを効率的・効果的に行わなければ、早く泳ぐことはできません。推進力のあるキックには股関節を内旋(内側に捻る)することが大切なのですが、このアクアフォース ストームは、独自の設計でダウンキックする際、股関節を内旋方向へサポートする力が働きます。また身頃を一枚の布で作り、切り替え部分を極力無くし、生地の伸縮性を担保しています。一枚布で作ることで、水を含んで重くなってしまう糸の使用量も減らすことができます。力強いキックで注目される本多灯選手は、デサントジャパンとアドバイザリー契約を結んでおり、パリ五輪でもデサントの「アリーナ」ブランドを着用しました。
さらにトップ選手たちは水着だけでなく、ゴーグルにも当然こだわりがあり、水の抵抗を避けるため「薄さ」が大切にされています。2023年8月に発表されたアリーナのトップ選手用ゴーグルは、やはりその薄さが特徴。トップ選手用のゴーグルは、薄さを追求するためにクッションパッドのないものも展開されるほどですが、「アクアフォース スイフトエース」は、ずれにくくするためパッドを装備しつつ、レンズの厚みを極限までカットしています。
ハスの葉の構造がヒントに…池江璃花子選手着用の水着
池江選手はミズノを着用。ミズノはデサントと同じく2023年8月に、新作水着を発表しました。ミズノが誇るトップ選手向け競泳用水着は「ジーエックス ソニック シックス」。このジーエックスシリーズは、高速水着の衝撃冷めやらぬ2011年、水の抵抗が少なく、推進力を発揮しやすい水中姿勢である「フラットスイム」をコンセプトに開発されました。ラバー水着により、フラットスイムの有用性が意識された結果かもしれません。
この最新型も、一本一本の糸にまでこだわることで撥水性を向上。この生地は、ハスの葉の構造をヒントにして表面に凹凸を持たせています。また原糸を特殊なスリット形状に加工することで空気を取り込み、水との接触面積が減少。動いても糸が浸水しにくくなりました。こうして従来のモデルよりも水中軽量化を実現させることでより高いポジションを保つことができ、効率のいい泳ぎをサポートするのだそう。
また、必需品のキャップにも工夫が。ミズノのジーエックスシリーズのキャップは、頭頂部に突起をつけることで整流効果を生み出し、流水抵抗を役4.8%低減できたといいます。
流水抵抗を極限まで低減させたトップ選手用水着
水泳大国、オーストラリアで誕生し現在はイギリスに本拠地を置くスピードは、2024年3月に8年ぶりとなるトップ選手用水着を発表。日本人選手により適した水着を開発するため、本国のモデル「ファストスキンレーザーレーサーピュアヴァラーファストスキンレーザーレーサーピュアヴァラー」をモデルに、「ゴールドウイン テック・ラボ」で3年間の研究の後、「ファストスキンレーザーレーサーピュアグリント」が誕生しました。日本人の体型に合わせたことでよりフィット感も増し、水の侵入を防御。縫製を極力控えシームテープによる接合を行い、凹凸のないフラットな仕上がりに。そんな工夫の積み重ねにより流水抵抗を極限まで低減させています。
撥水性ではなく親水性で勝負した水着
前述した「たこ焼きラバー」の山本化学工業も、パリ五輪に向けて新素材「SCSファブリック」を開発したと3月に発表しました。従来品の85分の1まで水との摩擦抵抗係数を軽減することで、泳ぐ人の推進力を最大限活かし、ストローク数を最小限に抑えています。また、着用感にもこだわり、体を包み込むような安心感があるのだとか。さらにとても興味深いのは、他社製品のような「撥水性」ではなく、常識を覆す特殊な「親水性」を有していることです。SCSファブリックに直接水分子の膜が張り、その上を水が限りなくゼロ抵抗で流れていくのです。世界の水着メーカーへ供給がスタートしています。
ちなみにトップ選手向けの水着ですが、一般でも購入することができます。技術の粋が結集されているだけあって、価格は3〜4万円台です。
今大会も大きな期待がかかる日本競泳陣。TV観戦するときにはぜひ、どんな水着を着用しているかにも、今一度注目してみるとより五輪が面白くなるかもしれません。
【プロフィール】
有馬美穂
ライター。2004年早稲田大学卒業。『VERY』をはじめ、さまざまな雑誌媒体等で主にライフスタイル、女性の健康、教育、ジェンダー、ファッションについての取材執筆を行う。